美しきは美しき

感じたことのメモ書きです

黄色い風船

夢を見た。

日本では9月1日が一年の中で一番子供の自殺数が多い日らしい。

そんなことが関係あるのか。

 

夢を見たのは8月31日の眠りについた後、明け方近くなはず。

起きたての気分は最悪だった。

 

夢はレオナルド・ディカプリオの若い頃で始まった。

彼が何と言ったかは忘れてしまったが、自殺について語っていた。

 

次のシーンには、すでに主人公はアジア人系の移民に変わっていた。

場所は多分アメリカ。

その主人公は自殺をしたくてたまらなかった。

毎日とある高層アパートの螺旋階段を上って屋上に行こうとした。

行こうとした、、というのもたどり着けなかったのだ。

 

螺旋階段を上ると、門番や守衛が追いかけてくる。

銃を撃つわ撃つわ。でも当たらないように。

主人公はヘタレだから、屋上までたどり着く前に諦めて別の階段を下っていく。

 

ある日、いつものように自殺しようと螺旋階段を上る。

誰も追いかけてこない、あっという間に屋上にくる。

 

屋上にいたときには自分は自殺する気が本当にあるのかわからなくなっていた。

その一方で、悪魔のようにここまできたのに自殺しなかったら自分は何をしていたんだ、門番は守衛は嘲笑するだろうと思い悩んだ。

走馬灯。

 

悩んで屋上の縁に足をかけた瞬間、同じときに自殺している人々が街中に浮かんできた。

それぞれ彼らが思い悩んで自殺をするまでの過程まで見えた。自殺に至った人々は、街中から黄色い風船で浮かび上がってきた。

 

自分はそんな悩んでいない。

主人公はもう二度と戻らない螺旋階段を静かに降りていった。

点と点をつなげる力

志の輔らくご」を下北沢の本多劇場へ見に行った。
率直に圧倒的だった。合計3時間15分、退屈な映画でなくても疲れる上演時間の長さである。だのに疲れなかった。いや疲れないと言ったら嘘になるかもしれない。ハラハラ、ドキドキの疲れはあった。

軽妙なトークから、後半の高座に向けて、流れの中で物語を把握するためのプレゼンテーションに入っていく。登場人物の系統図を前に話す師匠の説明はどこまでもスムーズでガッテンだった。

 

「牡丹灯籠」といい三遊亭圓朝作の有名な怪談落語らしい。最近は話の一部を切り取った短編版が語られることが多く、当の師匠も青年時代に聴いて知っていたのはその話だったとのこと。
実際、全編はものすごく長く師匠曰く、圓朝は1日2時間を15日間連続で高座に上がり語ったらしい。それはそれで話す方、聴く方の体力にもゾッとする。

前半1時間ちょいとのプレゼンテーションでストーリー展開が見えてくる。悲しみ、恨み、愛、喜び、あらゆる情が系統図の人物を点線でつないでいく。
頭の中にはまだ人物やストーリーが点としてそれぞれ浮遊しているだけ。

後半には高座に上がって聴く落語。浮遊していた点がそれぞれ磁力を持ち始め繋がり始めた。もはや頭の中では勝手にスクリーンが進んで行く。志の輔師匠は語っているだけなのに、圧巻の映像力。しかもところどころで緊張を解くように笑いを誘う。

話の終わりには、志の輔師匠が続きを想像したエピローグがあった。

「ありがとうございました」
と深いお辞儀。

ああ感動した。放心しながらもピシピシと電気を感じる。しびれたのだ。
知りもしないけど芸を極めるってこういうことなのかと思った。
志の輔らくご「牡丹灯籠」は今年7日目で、11年継続されていて毎年来る方もいるとまくらで言っていたが、その意味がわかった。多分話を聴くごとにどんどんどんどん頭の中の映像の解像度が上がっていくのだろう。

最初はただの点と点だったのに。
相手の想像力を使わせる。ただ圧倒的な体験であった。

人との違いについて

今まで自分の価値観を傷つけないために人とのコミュニケーションを絶っていたんだなと会社勤めするようになって気づいてきた。

自分が信じてきたことが真っ向から否定された時のショックたるや。けどそれが他の人の考えなのだ。やっと他の人の考えに目を向けられるようになった。次はそれを一度受け入れるという段階。

 

「頭が堅い」「頑固」「人の話をきかない」・・・・・、会社に入ってからというもの、連呼されてきた言葉。当人にはそんなつもりや意識がないから、心苦しい。

 

雪解けの時期。それが今なのか。人の話は聞いていたけど、自分のフィルターを通していた。こうだと信じているものに対しては結局自分のアウトプットを変えられなかった。

 

人とのすれ違いによって起こる摩擦、衝突。その度に傷つき、他の人の考えに目を向けざるを得なくなった。

 

一度、受け入れるということ。コミュニケーションの解放。

 

くりさんは温かい言葉をくれた。

「自分は否定しなくていい。間違いなんかない。ただ相手の意見を受け入れるだけ」

 

前世を高尚なお坊さんとする我が身には、とてつもなく突き刺さることば。自分を掘り続けるということが徐々にわかってきて悔しいけど嬉しい。やっと多様性の毛の先端に触れた気持ちだ。

とんがりぼーいだった頃

とんがりぼーいだった頃

夜が更けるだけで泣けてきた

メットの隙間から山風が季節を運び

心は静かにダンスをはじめる

 

投げた餌に責任は負わず

ただ夜空に皮肉を浮かべる

まばゆき月に浄化されるも

ただ一瞬の落ち着き

 

ただじゃれあいの言葉

ただじゃれあいの言葉

とんがりぼーいだった頃は

ただじゃれあいの言葉を紡いでいた

 

ほつれた糸のように

かよわくやさぐれたそれは

自分の頬に心地よい柔らかさだった

 

とんがりぼーいだった頃

窓越しに片肘をついてみるのが世界だった

ぼんやりとただ流れる視界

靄がかった色味が空に吸い取られっていった

ヒッチハイカーぐるぐる

先日仕事で郡山まで訪れた。

 

帰りに郡山から新白河間の下道を走っていると「宇都宮」の文字を掲げるヒッチハイカーがIC前の脇道に立っていた。

そして僕は気づくと彼の立つ20m先に車を駐めていた。

 

「ありがとうございます」

「後ろに荷物置いていいですよ」

という具合で彼が助手席に乗り込む。

新白河まで10km少しの短い距離だ。

 

男の名は杉本、28歳という。見た目は山ボーイ風の小綺麗な風体。ただ2週間で風呂なし野宿ありということでなかなかに臭う。これぞ野生臭か。

道中交わした会話のメインテーマは、彼が大学を卒業して、会社に入って感じた「社会って冷たいな」という感覚。

新卒で入った会社で虐められ、唯一良くしてくれた別部署の上司の自殺。

会社をやめ「この社会で自分はどうやって生き抜けるんだ」と1ヶ月考え抜いた結果、人が嫌がるような辛い仕事での経験をたくさんしてやろうと決断したらしい。

 

ヒッチハイクの旅に出るまでは、障害者支援の仕事につき、人生を改めて見つめ直すため旅を決断。網走から郡山までヒッチハイクしたり歩いたり。移動しながらぐるぐる考えているらしい。

 

優しい人って周りにいっぱいいるし、ヘルプもサポートもしてくれる人がたくさんいる。実際自分の周囲何mかではそう感じるのに、大都市の不特定多数の社会に放り込まれると同時に、その優しさの電波がゼロになるのはなんでか。

 

乙武さんが「日本はバリアフリーインフラが整っているけど、人と人との助け合いがない。一方、ロンドンではバリアフリーインフラは整っていないけど、人が人を助けるということがが社会のバリアフリーとしてシステムに組み込まれている」と言っていた。

 

自分ん含め、感じたことを行動にできていない世の中。

溢れる情報により自分の心の声を聞けていないのか。

 

「社会の冷たさ」この言葉はこれからどうにかしないとと思う。

優しさの輪廻

先日ウチのおじいさんが亡くなった。

亡くなった今思うのは、おじいさんの優しさ。

 

おじいさんはいっぱいものをくれるとか、そんな寄り添い方じゃなく、子供の僕がしたいことを尊重して、手伝ってくれるというやり方で愛してくれた。

 

わらじ作り、昆虫採集、竹馬、竹とんぼ、本格的なゴム鉄砲作り、ウクレレ作りなどなど、殊ものづくりに関しては、おじいさんも真剣に楽しんでいたように思う。

 

昔からものづくりが好きで、大人になっても靴作りしたり、将来建てる家は自分で建てる、とか志してしまうのは遺伝のせいだったか、とお通夜で気づく。

よく子供の頃にいったおばあさんの地元の豊岡の別荘はおじいさんが建てたらしい。(基礎は外注)

 

自分の顔をみてたまにおじいさんの面影を感じていたが、DNAにもはっきり残ってるもんだ。焼け残った大腿骨をみてみんな立派だ、と言っていた。僕のもそうだろうか。

 

トマトにマヨネーズをつけ白米と一緒に食べていたおじいさん、僕はあなたがくれた優しさに感謝して、おじいさんの優しさを輪廻させていきます。

 

 

感じたこと、即ち真実

感じるってなんだ?

最近仕事として必要が迫られることもあり「感じる」とか「直感」とか「感性」を意識している。昔から馴染みのある言葉たち。

 

たしかレイチェル・カーソンが「「知ること」は「感じる」ことの半分も重要ではない」と言葉を残している、ということを靴作りにいっていた頃の先生が言っていた。

うちの会社の代表も「感じたことがあんたにとってまぎれもない真実」と言っていた。

椎名誠は「最近の若者は一枚の絵から放たれるパワーを「感じる力」が弱くなっている」というようなことを言っていた。

久石讓は「想像力の源である「感性」、その土台になっているのは自分の中の知識や経験の蓄積だ」「「直感力」がセレンディピティを引き寄せる」と言っていた。

将棋の羽生さんも「決断力」という本の中で「選択の際、最後に頼りにするのは「直感」」と言っているそうだ。

スティーブ・ジョブスも卒業式のスピーチで「何より大事なのは、自分の心と「直感」に従う勇気を持つこと」と言っていた。

 

社会に情報が有り余るから、決断や判断に迫られる時、僕は自然とネットから回答を得ようとしている。そうすると自分が本当に何がしたいのか、というところから離れてしまい、自分で選んでいても責任も主体性もない、誰かの行動になってしまう。これはよくない。感じることに従順になること、自分の直感に自信を持つことは大切だと頷ける。

 

この前、会社の子と話した「見て見ぬ振り」。

これは照れの要素も強いけど「助けなくて大丈夫か」と心が反応したら、助ける。この当たり前の流れができなくなっている。なぜか。

いちいち一つ一つに感じていたらキリがないから、冷めないといけない、やみくもにアンテナを張っていると疲れる。会社の子はそういう見解だった。

 

最近の日本人には「思いやり」「自己肯定感」が欠けていると言われている。今一度自らしまい込んだアンテナを引っ張りだして、キャッチした電波で喜ぶ遺伝子を見つけてみる必要がありそうだ。