美しきは美しき

感じたことのメモ書きです

定型句

早退し一人ビールを傾けど

妻眠る時刻打つ音秋の夜

笑う腹に米粒大の人がいる

おはぎぐも湯立つ祖母の懐かしき

抜糸して春の風吹き気もそぞろ

ゴキブリか眼鏡のなかで動く影

木枯らしや洗濯ばさみの安い音

寒さよりおしゃれ優先女子3人

落つる陽や二人の影差す観覧車

もう駅だ結局車道側歩けず

自由句

青菜が盛られた小鉢の違和感

ほなまたいうて陽が差す背中

背伸びしてみたジャズで泣いた

あのカラスをせいで頭を下げている

柳瀬 リチャード 謎の付箋

初ホッケー数分後に病院

そこにいるなら歌わなかった

目印が車は迷う

なくなった標識を見る

どこいったジャンパー

金木犀が隣のおっさん臭を防ぐ

声だけじゃかえって切なくて

呼んでもないのに朝はくる

コロッケみたいな水苔

芸大という偏見

なぜか急によそよそしくなった隣の爺

おはよう華金の亡骸

月明かり沈黙ジャンパーを貸す

コインパーキングの車止めに腰掛け袖濡れ

もう一段あったのか

尾けてる訳じゃないという距離を保つ 

ぽつんと湿った一軒の家

あざ笑って降り注ぐ今日の日差し

痛感

 

「痛みを感じなければ人は学べない。」

 

勝手に師と仰いでいる木下さんの言葉だ。

木下さんは大学の頃、働いていたバーにたまに来てくれ、近くに住んでいたのもあり酒を飲みながらギター談義、セッションを一緒にしていた人。

豪快で繊細で、少年のように真っ直ぐな人。

家のテレビは酔っ払った勢いで画面の大部分にヒビが入り、ベースはネックが折れていた。

 

多分お酒を飲んでいてその時話題になっていた「The Cove」という映画の話になっていた時だった。

「・・・動物愛護とかなんとか言うけど、イルカは牛と違って知性レベルが高いとか言うけど、殺生には変わりがない。痛みが嫌なら肉を食うな。人は痛みがないと真実にはたどり着けない」

というようなことを言っていて、俺はそれをテーマに小説を書こうと思ってるんや、と木下さんは言っていた。

 

その時、テーマはかっこいいと思っていたけど、心からの理解はできなかった。

大学生の時は、痛みをなるべく避けていたんだと思う。

恥ずかしさ、辛さ、かっこわるさ…

 

今は自分の成長には痛感が必須になっている。

痛みがないと自分は学ばない。

イチローもこう言っている。

遠回りすることってすごく大事ですよ。無駄なことって結局無駄じゃない。遠回りすることが一番の近道。」 

 

自分がそれでしか納得できないなら、他の人がなんと言おうが、それでやってみる。

そしてこけて、痛みがあって、やっとわかる。

 

自分はそんな人です。

学びって

学びって何なんだ?
前進することか?

なぜ前進しなければならないのか?

競争社会で生き残るためか?

生きるって何の意味があるんだ?

 

みたいなことを考えている。

理由は学びをサポートする立場を体験したから。

 

平和な社会を基盤に、政治を進めていく。

サンクチュアリ」の北条、浅見のやり方だ。

そこにはキリング・フィールドを経験し、生き残ったという強烈な原体験がある。

 

生きることへの感謝。

ポジティブな信念。

 

だが皆がそうではない。

◯◯が好き、興味があるという内発的な動機。

動機を抽象化することで、社会の中で生き残る意味を見出せるのか?

そもそも社会の中で生き延びなければいけないのか?

 

何のために学んでいるのか。深い。

半年が経って

半年の間に色んなことがあった。

公募エッセイを書き、インタビューを考え、靴を作った。

一方で会社では、自分が辞職を考えている時に代表が辞めることになり、本社に日本が乗っ取られ、現在、次のキャリアを模索。

 

色んなことが終わり、始まる。

映画の中のガンジーの言葉に「歴史をみれば、真実と愛が常に勝利を収めてきた」とあった。

世の中を少し知るようになった今、この言葉の力強さを感じる。

 

自分はどんな風になりたいのか。

昨日ファシリテーターの振る舞いについて教えを請う中でヒントを得た。

「自分の純度を上げることだと思う」とがたおさんは言った。

 

自分の純度とは、簡単にいうと「らしさ」なるものらしい。

「自分が感動したことを共有する」「自分の意見をぶつける」

考えすぎるとすぐに見えなくなる。これってただの自分の感性を大事にすることやん。

ブログのタイトル「美しきは美しき」

 

自分の感性を押し付けない、人の感性に耳を傾ける。

ただあるだけ。

石井光太

先日買って読んでいなかった石井光太の「物乞う仏陀」を読んだ。

これはアジアで旅をしていた時に多分誰かから聞いたのか、どこかで知った作品だった。

 

この作品に魅了されて、僕は二つの行動をとった。

一つ目は、たまたま石井光太のHPに記載されていた講座の受講。

「体験を作品にする」というテーマで石井光太が講師、計三回のクラスだ。

 

もう一つ、この人の作品をもう一つ読んでみようと本を借りた。

「鬼畜の家」

親に殺された子供の話だ。

 

物乞う仏陀のあとがきにも書かれていたが、主観というよりかは対象者の感情や思いを含む事実をありありと伝えている。

言葉が石井光太の文字を通して、その人によって語られている感じ。

それはささやかな風景や語る人物の些細な描写であったりが、言葉を立体的に見せているのか。

 

内容は非常に悲惨である。

悲惨と捉えられるのはこの本を手にとって平和的に読める自分の立場がそう思わせる。

当事者たちは自分たちの環境や状況を受け入れていることが多い。悲壮感を持って乞食や虐待を語っていない。無力的な空気。

 

自分の平和さに嫌気がさしてくるこの感じ。

自分に何ができるのか。

何をすればこの世はよくなるのか。

 

昔は大きく考えれば考えるほど、夢も抽象化されていった。

今は、まず目の前の現実に向き合うこと。

世の中に最初から大きなインパクトを与えることなんてほぼ不可能である。

 

お前は周囲何mかの人間を幸せにできるのか。

まずはそこからである。

心の声を聞くということ

先日の話し方講座にて。
自分の話し方において注意する点は「シンプルに」と「共感できる」と言われた。
意識しないとすぐに忘れてしまう。

 

今まで自分のことしか考えた行動しかしてこなかったので、相手の立場にたったコミュニケーションを取り組むのに、かなりのエネルギーを要している。

会社に入って半年くらいまでは、無意識にも意識的にも自分の価値観を守ろうとして他の世界を受け入れられなかったけど、今は難しく時間がかかるものの、受け入れるという行為自体にそこまでの抵抗はなくなった。

28年も生きてきたのだ。どんだけ心を揺さぶられようが、自分の感覚はもはや変えられない。という自分存在の肯定、諦め、安心。

 

ひたすらコミュニケーションについては各方面から注意を受ける。改善していかないといけないとも思う。でもひるむ必要はない。できないんだから仕方ない(、でもやってみますという姿勢)。

 

心の声を聞くということはすごく抽象的で分かりにくいらしい。それと結構みんな普通にできてることだと言われた。
はたしてそうか?

 

自分に忠実か、自分の直感で生きられるか、他人の選択で生きていないか。
行動と思考に矛盾を感じてもいいけど、心の声を知っておくことが大事だと思う。